ABOUT

小林 大介 – DAISUKE KOBAYASHI

愛知県一宮市出身。
愛知県からオーストラリア生活を経て「釣りがしたいから」を理由に四国徳島県に定住。映像制作を中心に写真撮影、執筆などマルチに活動。猟師でもある。映画、音楽、漫画などのサブカルチャーを幼少の頃から好み、多大な影響を受けたことがクリエイティブな表現への原動力となっている。

Story

1980年
10月20日、次男として生まれる。

1984年
幼稚園の近くの絵画教室に通う。とにかく絵を書くのが大好きだったし、先生を教室に閉じ込めるいたずらも大好きだった。

1986年
鳥山明のヘタッピマンガ研究所 あなたも 漫画家になれる!かもしれないの巻に影響を受けていたため、将来漫画家になりたいと考えていた。実は鳥山明大先生は隣町に住んでおり、ドラゴンボールの原稿をジャンプの連載に間に合わせるためにせっせと書いていた事を知ったのは大人になってから。

1988年
小学三年生でザ・ブルーハーツのライブに尾宮くんと行く。生まれて初めてのライブで周りは背の高い大人だらけだったので怖かったし緊張していたのを覚えているが、河ちゃんの真夜中のテレフォンはそれ以上に忘れられない。確かバスト・ウエスト・ヒップのツアーライブだったように思う。これ以降ポップスに全く興味を示すことなく、パンクやロックを追求し始める。

1992年
ファイナルファンタジーⅣを同級生の澤田に勧められてやってみたら面白すぎてどハマリした。澤田は土曜日に家に遊びに来てモスバーガーを4個も食べていく、図々しくもとても面白い奴だった。この頃は自分のRPGゲームのカセットを人の家に行ってプレイするという、謎の遊びをしていた。

1994年
家を立て直すから近所のボロ屋に引っ越す。中2の夏休みだったが青春の影というトラウマ級なドラマなどの影響もあってか?この時の思い出が今でも強く残っている。これが中二病の病原菌というやつなんだと思っている。

1995年
土曜日、中学校から帰ると小林克也のラジオZip Hot100を聴いて洋楽の情報を得るのが日課だった。そこで聴いたRed Hot Chili PeppersWarpedにしびれたので、パンプキンというCD屋さんに買いにいく。他にもGreen DayBlurNirvanaなどのオルタナティブミュージックをはじめ、D.I.Y精神やカウンターカルチャー的なモノに惹かれはじめる。この原体験が今の僕を作っているのだと感じている。因みに一番最初に買った洋楽CDはThe Clashのシングルス。超名盤!

1996年
田舎はダサいやつが多いから都会の高校に行きたい…という非常に捻くれた理由で名古屋の高校に進学。限界集落に住む今では全く考えられないが、毎日通勤ラッシュの電車に一時間乗って名古屋に通っていた。当時は都会に憧れていたし、そこで見てきた様々なストリートカルチャーがかなり楽しかった。1980代後半〜90年半ばあたりは多くのカルチャーが代替していった時代でもあったため、僕は自分のことをオルタナティブ世代と呼んでいる。

1996年
兄に観せられたVHS、UK/DKで完全にパンクにハマり、パンク/ハードコアを聴き始める。The Clashなどに影響を受けつつも、DischargeExploitedなどのハードコアバンドからスキンズOiパンクなど、イギリス〜ヨーロッパの80年代のバンドを掘り下げ、名古屋-大阪のパンク/ハードコアシーンにどっぷりと浸かる。高校の夏休みの頃には見事な緑のモヒカンにしていた(笑)

▲19歳ぐらいの頃。ギターボーカルをしていました。

2001年
15歳からギターをやっていたが全然上手くならず、楽器は自分には難しいと感じていた。しかし直感的にやってみて楽しかったドラムをこの頃からやり始める。このあたりからパンク熱は完全に冷め、ロックンロールやジャズ・ブルースに興味を持ち、聴き始める。特にArt BlakeyElvin Jonesのダイナミックなドラミングには度肝を抜かれた。因みにこのウェブサイトのURLはElvin Jonesの出生名Rayを付けてしまっているほど影響を受けている。でも一番影響を受けたドラマーはLed ZeppelinJohn Bonham

2002年
高校生の時からなんとなくバンド活動はしていたけれど、本格的にバンド活動をし始める。名古屋拠点ということもあり、Blankey Jet Cityの影響を多分に受けたバンドだった。これ以降はひたすら音楽にのめり込み、ジャズ、ブルース、ソウル、リズム&ブルース、ファンク、ハードロック、フュージョンなどの音楽を聴いては日々研究をしていたし、合わせて映画も毎日観まくっていた。今思えばつまらなかった現実が嫌で仕方がなく、現実逃避をしていたのだと思う。レンタルビデオショップに行っては毎週4本のDVDと5枚のCDをレンタルするのが日課だった。お陰で耳と目の解像度は異常に上がったが、反面ドラムをやり過ぎて普段使いの耳は非常に悪い。今でも2人以上の会話をうまく聞き取ることができない。これはドラマーあるある。

2007年
音楽好きが高じて音楽が生まれた街、ニュー・オリンズへ行く。夜のフレンチ・クォーターを歩けばどこのバーもDr.Johnスタイルのミュージシャンだらけでライブだらけ。The Metersのメンバーにお会いしたり、5時間以上も練り歩く本場のセカンドラインに参加したり、地元フェスに行けたり、Commonが目の前にいて即興ラップを繰り広げたり、本場のガンボを食べたり、カフェ・デュ・モンドのベニエの美味さにビビったり、夜中のライブハウスで眠さで気絶しそうになりながら観た、LettuceのドラマーAdam Deitchの粘りのあるファンクドラミングに惚れたり、素晴らしい経験が出来た。2005年にハリケーン、カトリーナの被害をうけた2年後ということもあり、街はまだまだ復興への動きが大きかった時期だった。

▲リズミカルなマーチングスタイルで街を練り歩く葬儀パレード「セカンドライン」に参加。この時はカトリーナの復興の意味を込めたパレードだったように思う。そして日本人などは皆無。5時間以上もほぼぶっ通しで演奏する彼らのエネルギーにはとにかく驚かされた。

2007年
インターネットとコンピューターに興味があったため、Webサイトの作り方を学び始める。毎日ひたすらコードを模写してサンプルのウェブサイトを複数作っていたらいつの間にか自然と書けるようになっていた。20代前半の時にドラムのトレーニングで、とにかく毎日反復練習をしたらスキルが伸びることを理解していたため、スキルの獲得はこれ以降容易になった。同時にこの時バンドをやめて音楽以外の自分の人生を模索しはじめる。ユニコーンが解散してからしばらくしてソロ活動をはじめた奥田民生が、インタビュアーに「一年間何をしていたんですか?」と聞かれた時に「釣り」とだけ答えた人生に憧れ、釣りをはじめる。

2011年
ECサイト制作担当をしていた会社をやめ、目的は何もなかったがオーストラリアに行く。バイロン・ベイという所にたまたま行き着き、大好きな街となる。ストレスを抱えて生きてきたつもりはなかったけど、この街に住んでから驚くほど身体が軽くなった。生まれて初めて自分はストレスがあったことにここで気づく。一緒に住んでいた方が寿司屋のオーナーだったためそこで働く。料理や包丁の使い方、魚の捌き方はこの辺りから覚えていった気がする。バイロン・ベイは僕にとって人生のターニング・ポイントとなった、とても大切な場所。

▲夕日とゆるいサーファーたちがとにかく心地良い。この景色を毎日見たいと思っている。この夕日を見に行くためだけに訪れても良い場所。

2013年
ALSという難病で7年間闘病をしていた父が亡くなる。オーストラリアにいたが次の日には帰国し見送ることができた。この時、自分の人生をもっと自分らしく生きよう!と決意した瞬間だった。過去にアイス・バケツ・チャレンジというSNSを使ったチェーンメールのようなモノが流行った。趣旨は理解するべきではあるがALSを間近で知っている人間からすると非常に不愉快なモノだった。物事を多くの人々により知ってもらうためにエンタメであればあるほど広まりやすいという事実は本当に残念であるし、エンタメに本質と真実はないと感じた出来事でもあった。

2015年
日本の田舎が見たくなりオーストラリアから日本に帰国。軽く旅をしてたまたま行き着いた徳島県に移住。とにかく釣りがしたくて海の近くに住みたかったので、どこでも良かったというのが正直な所だが、ボクの住む徳島県の地域はクラゲのようにのんびりとした人たちが多く、クラゲ体質の自分にはとても住みやすい町だと感じている。この時カメラも始めた。毎日写真を1000枚ぐらい撮っていたら仕事が舞い込んで来るようになった。

2018年
「DAISUKE KOBAYASHI」という屋号で個人事業主として開業。幼少の頃から音楽・映画などのサブカルチャーで培ってきた感性と、2015年以降に始めたドローンやミラーレスカメラに代表するテクノロジーの進化によって、カメラを使った生業をしていくことが自分の中でクロスしたのだ。腑に落ちた時に個人事業主としてクリエティブな仕事がしたい!とコンピューターを学んでいた時から思っていたのだが、このクロスした瞬間は今でも忘れられない(小林大介クロスオーヴァー期)。またこれまで働くということは「お金を稼ぐための手段」としか考えてこなかった人間だったのだが、働くこと=自分の人生と同義になった瞬間でもあった。38歳にしてようやく自分の生き方を見つけられたように思う。

2020年
「なにかを達成するには最低でも7年の年月をかける必要がある」と、ボクが非常に尊敬してやまないクリエイター高城剛さんが常々言っているのだが、2013年にボクは『どこでも仕事ができるスタイルの確立』を計画した。それから7年…カメラを始め、映像を制作し始め、それを仕事とすることができた。どこでも仕事ができるスタイルを確立することができたのだ。

2021年
40歳になったことをいい事に、ボクが資本主義を生き抜くために必要と感じているアイテム40個を、Voigtlander40mmのレンズを使って撮り下ろした、Kindle電子書籍『現代を生き抜くサバイバルアイテム40』をリリース。「受け手よりも送り手の方が多くの学びと発見、そしてそれに伴った成長がある!」を裏テーマとして制作。お陰で多くの学びを得れた。

2022年
娘が生まれる。名前は「永茉(えま)」。「女性がお腹の中で育てて、お腹を痛めて産むため、その感覚や痛みを経験していない男側が名前をつけるなんてとんでもない!」というボク独自の考え方から、名前を考えるのは完全に妻に任せた。妻は優柔不断なので色々と迷っていたが、結果すごく良い名前だし、素敵な子に育って欲しいと心から願っている。因みにボクは娘が生まれた日、安堵してメバル釣りにでかけた。そしたら80cmのスズキが釣れたので、ボクに名前を付けさせるのならば、とんでもない名前になっていたように思う。

2023年
娘が生まれたことで子どもの思い出を残すことの大切さを知り、Photo&Movie Creation MEMENTO – メメントをはじめる。Kindle電子書籍二冊目『ひとつのコトを成し遂げるために必要な7年』もリリース。タイトルが分かりにくいせいか、あまり多くの反応が得られていないため、タイトルの重要性を改めて感じる。

2024年
以前からはじめていた、思い出撮影サービスや書籍プロジェクト、そして新たにはじめたオルタナティブ自主映像制作など、すべてのコンセプトを練り直し再スタート。総じてプロジェクトと呼ぶ。まるで7つの海を制覇する海賊のようにと思い、最終的には7つのプロジェクトを立ち上げ、そして成し遂げたいと考えている。ここでの「成し遂げる」とはそれぞれのプロジェクトがパラレル化することを指している。
合わせて、映像クリエイター、フォトグラファーとして活動してきた違和感を具現化するタイミングの波が押し寄せていると感じ、その経験をもとにした「ビジュアルコミュニケーション戦略」へシフトをはじめる。

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