徳島県で映像・写真・執筆などのクリエイティブ業を営んでおります、DAISUKE KOBAYASHIです📕

今年もやってきました夏が。徳島の夏のビッグイベントと言えば毎年徳島市で4日間行われる阿波おどりです。2023年、2022年は残念ながら雨や台風によりまさかの2日間中止となったり、更にその前の2020年であればコロナ禍ということで全日中止となったり。

一方で自然の脅威とは全く別軸の、阿波おどりの二項対立が明るみに出てしまい、マスメディアにも大々的に取り上げられる事態となり、正直ここ数年間の阿波おどりは経済効果(2023年は黒字とのことですが)としても行事としても全く良い事の無い状態となっていますが、今年2024年も開催される事が決定したようです。

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僕はこの阿波おどりをある種の節目として捉えていたりします。というとも、僕の父親は2013年の8月16日に亡くなりました。ALSという難病を患い、7年間の闘病の末でした。

そうした事もあり、2013年以降は僕にとってお盆という期間は本当の意味での供養となり、ある種年末年始よりも”一年の節目”として考えるようになったのです。

そして徳島県に2014年の9月に移住してからというもの、なぜか「行かなければいけない!」という思いがあり(きっと父親を弔いたいのだと客観的に感じています)、毎年阿波おどりには欠かさず行っておりまして、中止の年こそありましたが、今年で9回目を迎える事になります。徳島県に移住してからは10年を迎えようとしています。

そうした10年という節目という事もあり、今年は阿波おどりのルポルタージュブックをリリースしたい!と考えているのです。

ルポルタージュとは、現場取材や観察に基づいて、事件や事象、人々の生活などを詳しく描写し、報告することを指します。事実に基づいたリアルな描写や証言を通じて、読者や視聴者に現場の臨場感や真実を伝えることを目的としているのですが、僕は写真+文章を通じてそれを皆さんにお届けできたらと考えているのです。

阿波おどりに限らず、華のある行事は華ばかりが注目されてしまい、現場のリアルな状況や事実などはどこか蔑ろになっているのが世の常です。僕はそうした華を楽しむことに非常に興味はありますが、撮る分にはほとんど興味はなく、寧ろ今年の阿波おどりはどのような空気感なんだろうか?参加している連の皆さんはどんな気持ちで踊っているのだろうか?観光客の入りは?雰囲気は?どのような目的や希望を持ち、足を運んでいるかがとても気になるし、問題が鳴り止まぬ阿波おどりはそれこそ重要な事だと僕は思っているです。

正直、出来るか分かりませんが、一先ずここに書いておき、実行するための活力としたいと思っています。「出来るか分からない」というのは、先ず仕事として阿波おどりの撮影をしなければいけない日があるため一日潰れます。

で、残り3日。僕は現在子育て中ということで時間を自由に作る事が非常に難しい状況です。どこか一日は娘を連れていきたいと思ってもいるため、娘を連れて行くとなるとこれで実質2日潰れます。さて残り2日。妻の仕事の都合などを考えて計画をこれから立てていきたいと思っていますが、都合がつくかはまだ未定なのです。

それに例年の雨での中止。これが今年も起きるとは思えませんが(雨で中止になることが滅多になく、昨年一昨年は異例中の異例)、それが今年もないとは言い切れないため、自分がルポルタージュブックを作りたいと思っても、単純に作れない要素が多々潜んでいるのです。

それらをクリアしてようやくルポできる事になるのです。

因みに2022年にはこうした映像を残しておくことができました。

当時そんなつもりで作ったわけではありませんでしたが、こちらもある種のルポルタージュと呼べるものかもしれません。コロナ禍や二項対立からのドタバタで開催された阿波おどり。2018年あたりから阿波おどりは僕にとって”祭り”や”伝統芸能”ではなくなり、”政治”に置き換わったのでした。そう、オリンピックや万博と同じポジションになってしまったのです。

そうした意味でも徳島県で行われる一大行事ということで、”一年の節目”として考えているところもあったりするのです。

移住してからはじめての阿波おどりの年は、「徳島市の中心部ですごい盛り上がるよ」なんてことを聞き、僕は絶対に行かなければ行けない!と思い、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損!」の言葉どおり、勝手に参加型なんだと思い込み、スネア(ドラム)を持っていったら全くそんな感じではなかった、非常に青くも赤い思い出がありますが(笑)、ジャンベを叩く友人たちに混じって、野良おどりでスネアを鳴らしてきたのが阿波おどり最初の年でした。思えば最初の年が一番面白かったかもしれません。

そうしたある種の”純粋さ”は今では一ミリもなく、ここ数年はまるで政治行事が行われるかのような気持ちで参加をしていたりします。

一方で僕のような移住者とは全く違い、阿波おどりを愛してやまない人たちも多くいます。彼らはこうした二項対立に怒りや憤りを感じながらも、体系的に行われる政治型阿波おどりに乗っかり、自分たちのルーツである還来の阿波おどりを表現しようとしています。

そんな中庸的ポジショニングの僕は一人のクリエイターとして、何かを表現しなければいけない!と思い、今年はルポルタージュをと考えているのです。

僕は見る阿呆には絶対になれず、撮る阿呆にしかなれないのです。